#夫婦 #推薦図書 #読書 #橋本治 #恋愛論 #小説 #猫

#夫婦 #推薦図書 #読書 #橋本治 #恋愛論 #小説 #猫

 

●概要

まだジェンダー関連の解像度、理解、認識が低く、下手をすれば精神的な問題とされた時代に、巧みに、そして文句を言わせないくらい社会的に成功を収め逞しくサバイブした作者が、性別を、社会的枠組みを、越境もしくは超越した場所から届けるのは、

 


人並み(と思い込んでいる)の恋愛、幸せな(こうあるべきという)結婚の圧力、誰と何処でどのようにするか本来自由で多様性を持つはず恋愛への不寛容、無理解、

物事の理解のために、枠組みに捕らえる事でしか捉えられない囚われた人達、傷付き易く臆病な人達への救いの言葉でした。

 


今なら差別ガーとなりかねない案件も、自らを加害者にも被害者に貶す事なく、世間の狭量な偏見と切って捨て、後ろ指刺す者を、遥か高みからバカだのめんどうだのどうでもいいだのと一笑に付してみせる剛腕にはただただ見惚れる他有りません。

 

 

 

●内容

タイトル通り恋愛について語られる訳ですが、恋愛話ではなく論となっているだけあってカバーする範囲は広く、恋愛、出会いに対して漠然とした不安を持つ人には、恋愛する理由は有るか、そもそも今の自分、今の生活に恋愛が必要かを客観視させ、圧力に屈した末の消極的な理由、救いを求めての恋愛には警鐘を鳴らすような事もしています。

鳴らすと言っても大袈裟なものではなく、馬鹿だね、上手くいきっこないよ、と大きな怪我には繋がらないレベルの危険に手を出そうとする、好奇心いっぱいの子供を見守るようなそれですが。

 


そうした波乱含みの恋愛の使われ方として挙げられていたのは、人が持っているものが良い物であった時、無理なく努力なく自分らしさを失わずに手に入れる手段として使用する。

自分の事が好きになれないから、他人に好かれるかどうか、他者評価が大事で、他人に好きになって貰おうとする、他人に代行させるために使用する、等々。

そして、好きになれない自分を隠し、それを他人に見つけて欲しがる。これが『愛されたい』という事であるとも。

こう解説を受けると、上手く行かないケースの恋愛の成り立ち、形が良く分かります。

作者により貫かれていた姿勢は単純にして至高。恋愛と救いを一緒にしない。他人は神聖なもので、簡単に依存するな、雑にするな、まずは自分の足で立て、と。

 

 

 

作中、最も興味深かったのは、恋愛が成立する要件である二つの矛盾する要素についてで、『二人は同じだ』、『この人は自分とは違う』というものでした。

 


関係が上手くいっている時は、

『似ているからやっていけると思う』、『自分とは違うから惹かれる』になりますが、

駄目になる時は、

『同じ方向を向いていなかった』、『なんだ、自分と同じだったのかと幻滅する』と言います。

 


例えば、二人は違うのに、『察しろ!』と言ってしまう人は、基本的な愛情を成立させる努力を放棄しており、相手に対して暴力的に『分かれ!分かれ!』とやってしまい、一方に似せる、合わせるという無理をやらせてしまう。

結果、二人の恋愛は上記の駄目な時の『違う』と『同じ』へと至ってしまう、という具合。

 

 

 

これもまた唸らされたのですが、

世界が百人一首のゲームだとして、どうにもこの世界で生き辛いと思っていたら、それもそのはず、自分はどうやらジャンル違いのトランプのジョーカーだったらしいとなった時。

自分が上手くやれないのは世界のルールがおかしいからだと疑い、百一人首にしてそこへ自分のカードを含めるルール、ゲームを作って、勝手に始めてしまうという豪胆さ、柔軟さに感心しきりでした。

 


何せ、自分で自分が駄目だと認める事は出来ない、許せない、耐えられない、だから認めてくれない世間の方が悪いのだ、という承認欲求の出し方ではなく、罪悪感も被害者意識も仮想敵も必要無いよと教え諭してみせたのですから。

 


併せて大事なモノの考え方、見方として、目につきがちな自分を嫌いな人より、自分を好きでいてくれる人の方が魅力的で有る、という事実に目を向ける事。

分かる、分からない、無理解も価値基準の一つであり、そんな人の数以上に有る価値基準の中で、実際に適用すべき唯一絶対の価値基準は、自分と自分が好きな相手が二人で決める事である、とも。

 

 

 

作品自体は古い物ですが、今に通じるタイムリーな問題にも触れていました。『好き』の使い方と告ハラです。

 


自分が相手を好きでいるのは相手を加味しない勝手な状態なので、相手との関係の中において好きである事が重要であり、『好き』を一方的に使うのは相手を無視した行為になる。

故に『好き』を使う時には関係性が決まっている時に行うべし、と。これが犠牲者を作らず、加害者(失恋という意味では犠牲者)にならないために必要な配慮である、と。

 


恋愛はスタート時点では『好き』というカード一枚だけを持った状態の上、そのままでは使えません。また、相手からも『好き』が返って来ないと意味がない、カードを使ったゲームでもあります。

ならばと人は相手に『好き』のカード一枚を持たせる事を考えがちですが、力技であり、配慮に欠けますし、ゲームとしての矜持と機能を失っています。

 


そこで使うためのゲームを作り、ルールを整える、他のカードを用意する必要が出て来ます。つまり、二人が、『好き』を使えるような関係の構築、土壌の醸成が必要である、と。簡単に言えば告ハラとゲームとしての負け(失恋)の可能性を減らすためにも、お互いを尊重し、マナーを守って、交友を深めなさい、と。

 


また、こうも言っています。『好き』は始まりの言葉のように思われがちです。ですが、確かに新たな関係のスタートではあるのですが、一方でこれまでの関係の終わり、状態の確定(お互い好き合っていたんですね。良かったですね。めでたしめでたし)が行われる終わりの言葉でもあります。

 


等々、本作を通して、恋愛に対する心構え、一緒に恋愛する対象である他者に対する配慮、自分を保つ確固たる価値観と色々学ばせて頂きました。

 

 

 

●本書と橋本治氏の在り方、付き合い方

とは言え、自分も当初から、このように模範的な生徒然として作者と本作に向き合っていた訳ではありません。あくまで自分と異なる時代に活躍し、異なる世代に評価された作家さんという認識でしたし、

 


(笑)、めんどくさい、どうでもいいけど、話が一向に進まない、が頻出する緩さ、お茶目さが、昭和のギャグ漫画みたいで、事実あまり入り込めずにおりました。

そこで、ネタバレじゃない場合に限り良くやるあとがきから読む、を実行した結果、態度を改める事となった次第です。

 


それがこちら。人によっては、本作を読む一番の価値、理由は本文ではなく、この追悼文に有ると言っても過言では無いと思うのですが、

#和宮様御留 の作者 #有吉佐和子 氏の人となり、交友が描かれる『誰が彼女を〜』の章。この文章の存在が大変大きく、涙なくしては読めません。

(結論ありき、都合の良いデータ、自称専門家を起用してのセンセーショナルな煽り、逆張り、レッテル貼り、世論誘導と傍若無人な振る舞いを見せていたマスコミが、

SNSにより情報伝達のスピードが上がり、ゴシップ対象の本人に直接否定されたり、本職の専門家に看破されるようになり、マスコミがマスゴミと揶揄されるようになって久しいですが、ここで明らかにされる件も御多分に洩れず)

 

 

 

あとがき回り読後は、その真っ直ぐな心根にやられ、改めて本文読み進めて行くうちに、時代、社会背景、ジェンダーの問題に絡み取られる事無く、凛としてあった生き様に圧倒されるに至り、襟を正した次第です。ただの苦労人ではなく成果を出す苦労人に人はドラマを見ますし、弱いものですから。

 


その生き様、強さが如何にして培われたかですが、時は昭和、24時間働けるか否かがビジネスマンに広く問われた、恥と我慢と尊敬で世界が回る厳しい前近代。

出来ないと泣き事を言う前に出来るような努力をしなければならない時代。そこでは、したつもりの努力も結果として現れなければ努力のうちに入りません。

そんな時代をサバイブした結果得たものですから、弱さを認め、頑張れないのも個性と受け入れられる、誰もが成功大成を理想とする訳ではない、多種多様な在り方に、理解と認知が求められる現代においては、

今や誰もが真似出来る強さでは有りません。その上、タヒを意識した時でさえ、タヒそのものよりタヒを止める理由、タヒなない理由が無い事の方が恐ろしい、とまで語るのですから。

 


そんな作者が真に凄い(強い)所は、どうなれば、どうあれば良いかを示しつつも、他者には決して強要しない所です。

しない、できない人を馬鹿だね、というだけ。それなのに安心を与える言葉はかけ続けてくれる。この求めない人から与えられる無償の優しさ、もたらされる愛の深さたるや。

 


読み終えて、この無償の愛(書籍代825円)に応える言葉は何か、ずっと考えていました。そして多分これが正解に近いのではないかと結論しました。

 


ありがとう、もう大丈夫だよ。

f:id:mondosumio:20210325125102j:image